Obituary

訃 報


駒木悠二 名誉教授 2022/1/28 死去87歳

駒木悠二の家族の者です。
この場をお借りして、本人が1月28日夕に永眠したことをご報告いたします。

2019年夏に呼吸不全で倒れ、回復後は介護付き老人ホームで過ごしていました。入居のみなさんに仲良くしていただきながら、Facebookを通じての交流も楽しみに過ごす日々でした。

本年1月26日に呼吸の状態が悪くなり、コロナ禍の中ではありましたが主治医の許をいただき、28日昼に家族一同で面会しました。そのときは思ったよりも元気そうで、まだしばらくは頑張ってくれるかと思いましたが、当日の夕方になって眠るように息を引き取ったとの連絡を施設からいただきました。享年87(1934年6月28日生まれ)。

面会の際に「なんで今日はみんなで来ているの。僕は死ぬっていうこと?」と冗談めかして言っていたのが、私たちが聞いた最後の言葉となりました。本人らしかったと感じています。

故人の遺志で、葬儀は家族のみで行いました。また、これも故人の遺志により、御香典・ご供花等は固くご辞退申し上げます。ご理解いただければ幸いです。

末筆ですが、生前いただいたご厚情に、故人に代わり御礼申し上げます。
ありがとうございました。


小川 均君(1970年卆)死去 2016/9/29 69歳

@死因:虚血性心臓疾患(司法解剖無し)

A死亡年月日:2016(平成28)年9月29日(木)

B年齢:(生誕:昭和22年1月1日)69歳

C死亡状況:亡くなった当日、お姉さんと病院へ向かっている途中で腕をダランとして、意識を無くしてしまい、慌てて救急車を呼んだが、心臓マッサ―ジの甲斐もなく、心停止で意識は戻らなかったそうです。

◎小川 均の健康診断が、死亡後見つかり、心臓肥大が明記されていたそうです。ご本人は、その事をあまり気にしていなかったようです。
亡くなる2〜3日前に、心臓がバクバクするとお姉さんに言っていたそうです。
早くに病院へ行って精密検査をしていれば!と悔やまれているようです。

(荻原賢一が姉の美奈子さまから聞いてくれた詳細です・2017/3/30追記)


力石定一 名誉教授 2016/1/22 肺炎で死去89歳

定年後もしばらく社会工学の講義を持っていた時代があります。ところがパーキンソンが出て、逗子の駅で転んでしまいました。それで、危険極まりないので「先生、もう学校に来てはいけません」とストップをかけたのは私でした。

それから、20年近くが過ぎついに大往生です。前田先生からの連絡が浦谷のところに入りました。先生のご冥福を祈ります。(2016/3/26)


東郷友理さん(2007年卒) 2014/4/17没 29歳

ゼミ長だった川崎雄太から悲報が入った。ひと月も経ってからの知らせだ。詳しいことは全く分からないが、心を病んで自ら絶ったと書いてある。

Facebookに「若山学校」を2011年9月に開設したのだが、2007年卒では第1号の入学だった。その時のやり取りだ。

Kunihiro Wakayama 07年卒東郷友理(07年卒第1号)
January 26, 2012 at 12:20am

Yuri Togo お久しぶりです!
第1号光栄です!
よろしくお願い致します!
January 26, 2012 at 6:26am

Kunihiro Wakayama 川崎が君達の連絡先を整備してくれたが、Facebook(若山学校)は友理が第1号、みんなに知らせてください。
January 26, 2012 at 10:56am

Yuri Togo 了解致しました!!!
January 26, 2012 at 5:39pm

亡くなる前の日、4月16日Facebookにこんなネイルの写真をアップしていました。1日の間に一体、どういうことが起きたのか想像もつきません。「ほんのりブロンズ」と書いてあります。

卒業以来、友理だけでなくこの学年はゼミOB/OG会に一度も出てきていない。会っていなかったのが心残りだ。(2014/5/20)


川田 努君(1971年卒) 2013/1/26没 63歳

自らがん宣言をし、病魔と闘うといってFacebookに書いていたのだが、1月26日未明2時33分に亡くなりました。S24年3月生まれ、63歳でした。残念至極です。

以下は2012年5月18日に川田がくれた最後のメールだ。

おはようございます。
大変お久しぶりです。
お元気ですか?

私の方は病気以外では大変元気でやっております。
この病気は痛くも痒くもなく普通にしておれば全く自覚症状はありません。
とは言え、治療は『真面目』に続けています。
現在は毎週3週間続けて通院による抗癌治療を行ない 次の1週はその確認をするというような繰り返しをしています。
現在肺に転移しているのですがPET,MRI,CT,レントゲン、血液検査などを頻繁にしていますので、ある日突然・・・はあり得ない状況で管理していますのでその点は安心しています。
気長にお付き合いしていきます。

そんな状況で生活していますので 思ったような活動はやりにくい事になっていますが、その間隙をぬって仕事もしています。
お陰様でこの年になっても仕事のオファーがあることは恵まれています。
感謝感謝です。

さて、そういう中で急遽ピンチヒッターで名簿作成を行いました。
いろいろ手を尽くしたのですが全員の所在は把握できませんでした。
待っても限がありませんので一旦完成としました。
遅くなりましたがフェースブックではなく普通のメールで送信いたしました。
恥ずかしながら、フェースブックの活用を普段していないので こちらの方がやり易いのです。
これが、71年卒の正式メンバー表です。

せっかく名簿を作成した訳ですから今年の秋ぐらいにゼミのOB全員で集まる事が出来ませんかネ〜〜〜!!
良い機会かもしれません。

では、お互いに健康に配慮して楽しい人生を創っていきたいものです。
再見!!!

川田 努


川田の希望通りに暮にOB会を開けば間に合ったかもしれない。

それより、12年2月4日に予定通り開いていてもよかったのだ!

1月30日の通夜で棺に納められた川田の顔を見て涙がこぼれた。元気で会いたかったのに・・・


森村信雄元専任講師 2013/1/21没 81歳

森村さんは法政工業高校の教諭をしていました。1978年、同校の廃止に伴い工学部の助手として移籍し、経営工学科に配属となりました。それから約20年、定年で退職したのが90年代後半だったと思います。嶋田正三先生のゼミでお手伝いをされていました。嶋田研の卒業生はお世話になったはずです。

嶋田先生は日立の中央研に居られた頃、大型計算機 Hitachi5020の開発の責任者でした。60歳の定年を迎えるとき、学生時代からよくお世話になった関係から法政大学に来てもらうよう迎えに行きました。その温厚な嶋田先生は、森村さんを大事にしてくれました。退職時は専任講師でした。(1/24)


森村信雄元専任講師


高木督夫名誉教授 2012/12/8没 90歳

私が法政大学に赴任する時の学科主任でした。山本先生に連れられて最初に挨拶に行った先生です。

92年以前の卒業生は高木先生の講義を聞いているはずです。専門は労働法、労務管理などです。私が最後にお会いしたのは2010年、最後のゼミ生がOR実験室でたむろしている時です。その頃、高木先生はかつての授業時間になると経営の事務室に現れるようになりました。お宅が緑町ですから歩いて何分かです。古林先生が「先生は18年前に定年で退職されました」と説明しても分かりません。

ある日、5階の廊下でうろうろしている高木先生を見つけました。急いで研究室に案内してお話をしました。昔のことはよく憶えているのです。しかし、どれだけの年月が経過したのか、その間の記憶はありません。頭の中は30年ほど前に戻ってしまっていました。

OR実験室にも案内しました。ゼミ生に先生を紹介して「今度、実験室にいらっしゃったら高木先生に講義をしてもらいなさい」と言ってやりました。

奥様のお話によると腰を圧迫骨折され入院なさってましたが
肺炎をおこされ7か月の闘病生活の末
桜町病院 → 三鷹病院 → 次を検討中
お亡くなりになったそうです。

遺言で「葬式はするな」ということだそうです。高木ゼミの卒業生で「高木先生を偲ぶ会」を企画してください。お世話になった人たちが「さよなら」できる場を考えてください。


高木督夫先生(1992年4月)


在りし日の経営工学科教室親睦会

大森  花泉  加藤  永野 中里  福馬  桂田
井戸  駒木  古林  前田  森村  若山
力石  山本  高木  米沢

 


古居久男君(1970年卒) 2012/12/5没 65歳

古居久男君は若ゼミ1期生。数年前に大動脈瘤破裂で奇跡的に助かったので長生きできると思っていたのですが、ここのところ音沙汰がなく、最後に私の家に来たのは、昨2011年9月のことでした。

「Facebookに若山学校を作れ」といったのは古居です。

何事にも肝っ玉の据わった男でした。若山ゼミOB/OG会ができた時から会長でした。

12月10日(月)南多摩斎場で荼毘に付されました。9期の天野英男君が時間を作って来てくれました。2人で送り出してきました。6月に生まれたばかりの古居の孫ちゃんにも会ってきました。明日、郷里の地で告別式が行われます。

7年前に大動脈瘤破裂の時、動脈にはパイプが入れられました。1か月前に心臓の下が痛いといい、救急車で病院に運ばれ、もう一度パイプを入れ直したということです。しかし、これが生体の拒否反応から感染症となり喀血したということです。一旦は話もできるようになっていたようですが、急に容態がが悪くなり意識がなくなったということです。

  

古居と同期(1期生)の小川、荻原、宇田川の3人が12月20日に古居の家に弔問に行ってくれた。その報告が中島の所にあり、中島から私のところにメールを転送して来ました。


古居久男近影(2012/6/16) 撮影:天野英男


2002年11月 OBG会の2次会

赤坂 Little MANUELA


我が家でのOB会 2011/9/25

私の卒業式をやりに来てくれました。

 


村松三生君(1978年卒) 2011/2/28 肺がん 55歳

この学年から蔵王合宿が始まった。記念すべき年だった。冬季に熊野岳に登ったというのもこれ1回限り、この後33年間蔵王での合宿が続いた。

この年は、村松と天野がゼミ幹事をやってくれた。昔は「ゼミ長」なんていう語はなかった。おかげで纏まりのよい年だった。面白いのは蔵王の合宿に、スキーをやらない嶌田、織田はスキーは滑らず、マージャンだけやりに来た。その2人をロープウェイに乗せて樹氷見物に地蔵山頂駅まで連れて行った。2人はオーバーを着て行ったのです。


蔵王連峰主峰 熊野岳山頂 1978.2
竹林 充  若山  村松三生


蔵王 地蔵山山頂
92年夏合宿に村松一家(奥さんと子供3人)が参加しました。
家族で参加は村松家が初めてです。

お兄ちゃんは26歳に成長していました。お母さんを君達で大切にしてください。


新宿区原町 専念寺

2011年9月25日に若山家で15人が集まりました。

その午前中に同期の天野と中山が墓参に行ってくれました。

この写真を涙ながらにアップしています。


2013年2月3日墓参

猪俣 及川 星野 中山 天野 若山 中川

この後、若山宅に。夕方から「安安」で餃子を食べた。そこに若ゼミ42期生の女子2名が合流。おじさんたちは若返った。

この娘たちが来たんだよ。

  


2014年2月2日(日)墓参

星野、中川、若山、天野、猪俣、及川
伊藤、飯島、中山

この後、3台のタクシーに分乗して若山宅に、大騒ぎをしてからいつもの「安安」餃子房で宴会、うるさいことうるさいことはいつもの通り。今年は可愛いOGがいないので、大荒れ!

  


中里 勝元助手 2011/1/11 すい臓がん 68歳

中里さんは経営工学科の助手となって力石さんのゼミでお手伝いをしていました。90年代の後半に胃がんの手術を受け胃袋を半分切除しました。その経過はすこぶるよく、99年からどこかのゼミに所属しないといけなくなり、「中さん、うちに来るか?」といったら「先生のところに行く」と喜んで若ゼミの一員になりました。65歳の定年まで勤めてくれました。 


ゼミOB会での近影


2005年6月 バーベキュー

2011年1月11日中里さんの奥様から訃報の電話が入りました。昨年の8月頃からすい臓のマーカーが4になり一時入院されていましたが、暮に脚から全身が腫れてしまい再入院していたところでした。

3月には孫を連れて蔵王にスキーをしに来たいと言っていたのに。まことに残念です。


長崎勇治君(1995年卒) 2010/9/6 群馬県荒船山にて墜落死

1994年度の工体連スキー部の主将だった長崎は、同じスキー部の男全と「若ゼミに入って蔵王に行こう」とゼミに入ってきた。もう一人、長野の久保田も地元のスキーヤー、この年はスキーに特化した年であった。

そんなスポーツマンだが、最近は一人で山歩きが趣味だといって近場の山を歩いていた。荒船山には200メートルの垂直の絶壁がある。そこで足を踏み外したらしい。誰も目撃者はいない。誰かが残された荷物を見つけて見つかったものだという。


95年3月24日卒業祝賀会


日付が変わっているのに注意・・・ 5分だけ過ぎました
  久保田
朋子、男全、三竹、溝呂木、長崎、八島
 加代
雅美、真弓、若山


若ゼミの48年間の歴史の中で早世した教え子が12名になった。上の訃報にある長崎、村松、中里、古居、川田、東郷、小川の7名はこのサイトが立ち上がってからの物故者である。

古居 久男(70年卒)2012/12/5
小川  均(70年卒)2016/9/29
川田  努(71年卒)2013/1/26
池永 和男(72年卒) 
田代潤一郎(72年卒) 
木幡  勉(76年卒) 
立堀 晴男(76年卒) 
小野  明(77年卒) 
村松 三生(78年卒)2011/2/28
小寺 周作(92年卒) 
長崎 勇治(95年卒)2010/9/6
東郷 友理(07年卒)2014/4/17

中里  勝(元助手)2011/1/11 

中里さんは力石ゼミを手伝っていましたが、胃がんを患って復帰後2,3年ゼミの仕事は免除されていましたが、元気を取り戻してからは若ゼミに来ました。蔵王に来てただ一人竜山登山をしました。

彼らの追悼文を募集します。書いてくれる人は原稿や写真を送ってください。

同期の人や同じクラブの人などで相談してください。