若山ゼミ卒業生の作成したゼミアルバムについて ■ ■ ■ ■ ■ 最初にスクラップブックに写真を貼り、いろいろなコメントを書き入れてくれた学年が昭和51年卒業の7期生です。それは夏・冬と合宿を行い沢山の写真たまったので、アルバム作りというアイディアを思いついたのです。この年はゼミの歴史で最も多い23名という大所帯でした。沢井たちが考えたのでしょう。私が指示してアルバムを作ったのではありません。 実際、アルバムを作成するのは手間がかかります。学年末の試験も終わり、卒論合格の打ち上げをスキー合宿でやったのです。それが終わって、春休みに大学に出てきてアルバムを編集するのです。労をいとわない人にしか出来ません。 ■ ■ ■ ■ ■ 私が法政大学に赴任した頃は、ゼミ合宿などどこのゼミもやっていませんでした。入りたての若造が先輩教員を差し置いて学生を連れまわすのは遠慮していましたが、3期生が夏に「合宿をやりましょう」と言い出しました。「よーし」と夏合宿が始まりました。榛名湖に出かけました。3期の幹事は大谷正美でした。当時はゼミ長なんていう言葉はありません。若ゼミでは幹事と呼んでいました。 4期生の塚本たちが「先生、スキーをやるんですって?」と言ってきました。山本先生か誰かに聞いてのかもしれません。法政に着任してから初めてスキーに出かけました。3年間滑っていませんでした。新しいスキー板をおろして万座に行きました。東京から近くて雪がいいので私の好みのスキーエレアでした。 5期生には小樽出身の杉谷がいて「先生、北海道に来てください」「よーし」でニセコで合宿をしました。6期生は勉強ばかりしていたらしいです。 当時は遠いと言われた蔵王に出かけるようになったのは、9期生の時です。はじめは冬のシーズンしか行けませんでしたが、13期生(1981年夏)から蔵王ハイムが夏も営業するようになり、夏・冬の合宿は蔵王にフィックスされました。 11期生は特別な年でした。私の家内が前の年から病に倒れ79年10月に亡くなりました。下の子は1歳半です。合宿に行けるような年でなかったのです。学生たちもいい思い出を作ってやることが出来ず、かわいそうな年になりました。 その後は、夏冬と2回の蔵王合宿が続きました。82年の冬合宿に3年生が始めて参加しました。その頃から3年生のうちにゼミの所属を決めるようになったからです。松本と後藤が3年の合宿参加の皮切りでした。それからというもの毎年毎年、卒業生で合宿はあふれるばかりでした。 しかし、最後の最後、2011年3月の最後の冬合宿は3.11の大地震により中止となりました。卒業式も祝賀会もすべて津波に流されました。 ■ ■ ■ ■ ■ アルバム作りなど面倒くさいことをやらないと何も残りません。面倒なことをやった学年は後々になって学生時代を懐かしむ貴重な資料として残ります。 自分の人生でも同じです。面倒なことをやらないと死ぬ時に何もありません。みんな、人の嫌がることでも買って出てください。後で自分に返ってきます。 現在手許にある卒業アルバムは以下のとおりです。
アルバムを編集していない学年の卒業生で、ゼミ関係の写真を持っている方は、YohooアルバムやPicasaアルバムなどにアーカイプを作成してくれるとありがたいです。 量が少ない場合は、若山までメール添付で送ってくれても結構です。(2011/5/25)
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